仙人草の咲く庭で

犬と一緒に散策する里山スケッチ。自然界のさまざまな存在や、見えない世界へと誘われる心のスケッチ、モノローグ

いぶりがっこー秋田の伝統食 5

要するに、日々の食べ物がどこからやって来るのか、何がどうなっているのか

分からなくなってしまった現代人である私たちと比べたら、

その昔の人々は一揆を起こすような屈強さ、ガッツがあったのではないかと

想像したという訳です。

現代に生きる私たちは、便利で豊かな暮らしをしていると言われていますが、

システムに取り囲まれて、実は身動きもままならない程、コントロール(支配)

されているのではないか?

身体も大きくなって、背も伸びたし、寿命も伸びたって言われているけど、

少し先の未来も果たしてそのままそれが続いていくだろうか?

私の視点からは、自分で物事を考える力も失って、柄が大きいだけの

ロボットのような人間がどんどん製造されているのではないかと、

ブラックなSFのようなことも考えてしまいます。

昔の人は大地と繋がっていたから、自分達の命がどこから来て、

何が命を育んでくれているのか、そういうことがちゃんと分かっていたから、

自分の死を覚悟した上でも、一揆を起こせた(起こさざるを得ないほど生き死に

に関わる切迫した状況だったということもあるかも知れませんが)、兎に角

そういうことだったのではないかと、思わず想像を巡らした次第です。

いぶりがっこから一気に百姓一揆に話が飛躍してしまって、言っていることも

かなり破茶滅茶で論理的にも全くなってなかったかも知れませんが。^^;

漬物を漬けるという昔ながらに続いていた暮らしを、衛生管理という言葉、

概念で縛られ、奪われ、失っていく庶民。

そこから今、世の中で起きていることを横目で見て、反発する気力や思考力も

奪われているのではないか?そもそもそれは、私たちの暮らしが大地から

離れてしまったことにあるのではないか?と考えたことからでした。

一揆が起こせるほど、自然と共にある暮らし、大地と繋がった暮らしと心。

ガッツに溢れた生き方。起こそうぜ百姓一揆!なんて、畑もろくに出来ない

自分のことは完全に棚に上げきって、無責任かつ自分勝手にロマンに

突っ走ってしまいました。😅

論理の飛躍は致し方ないとして、私の考えていることのコアな部分

(いいところ)がほんの少しでも伝わったり、

万が一、理解していただけたら超ラッキーです💗

*百姓という言葉について・・・百姓という言葉は差別用語に含まれている

そうですが、私の理解したところでは、百のことを生業(なりわい)とする

いう意味になります。つまり、マルチタレント的な人、ひとつのことに

捉われず、自由な発想や生き方ができる人というポジティブな意味合いで、

百姓という言葉を使わせて頂きました✌️