仙人草の咲く庭で

犬と一緒に散策する里山スケッチ。自然界のさまざまな存在や、見えない世界へと誘われる心のスケッチ、モノローグ

切り株

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森の番人・最後の勇姿

私が「森の番人」と呼んでいた、家の裏から山へと続く農道の脇に鎮座ましましていた

切り株が最近の長雨のせいでか、、、ついに崩れ落ちた。

思えばこの切り株は、私たちがここに越して来た25年前には、すでに切り株だった。切られてまもないという感じではなかったので、少なく見ても3年、いや、おそらく5年かそれ以上は経っていたんじゃないだろうか?

私の家がこの区域のメインの道路から右・左・右とほぼ直角に2回曲がった先に建っていて、そこから先にはもう家は建ってない。つまり奥まった細い道路の最後にある家で、そこから先の里山に入るのは、わずかに地元の農家の人と、ハンターぐらいだ。

家から数分奥に入っただけで、人家が建っているあたりとは全く雰囲気(波動)が違う。幽玄とまではいかないものの、植物や鳥や昆虫、爬虫類、両生類など、自然界の気配が濃厚になって、心が洗われるというか、頭がスッキリしてくる。田舎の家と言っても、家の中にいると、自分の思考で世界が巡っていて、それに少し疲れを感じる。疲れると憑かれるは同義語なのだと、家から数歩外に出るだけで実感する。

話は切り株から逸れてしまったが、その里山の林に通じる農道の脇に、この切り株はずっと鎮座していた。この木が切られずにいたら、夏には緑の葉っぱが生い繁って、随分立派な見応えのある姿をしていただろうに、と今になって思うが、何しろここにきた時から切り株だったので、立派な切り株=森の番人として一目置いてきた。

植物が凄いと思うのは、切り株になっても、まだ生命が続いていて、そこにキノコが生えたり、別の、たとえばドングリが芽吹いたりして、他の生命に養分を与えながら生き続けているところだ。崩れ落ちた今でも、藤蔓で繋がっていて、土手から吊り下げられた状態になっている。誰かが何かしない限り、藤蔓が切れるまで、切り株は宙吊りのような状態で、ずっと土手にへばりついているだろう。

去年あたりから樹皮が剥がれ落ちだして、特に今年に入ってからは、木の一部が崩れ落ち始めていたので、さすがの長老もそろそろ力尽きてきたかなと思ってはいたが、先週あたりから雨が降り続いて、お盆に入っても珍しく雨ばかりで、何となく農道を歩いてみたら、いきなり切り株が崩れ落ちているのを発見したという次第。

ついに!

その時がやって来てしまった!

 

 すべて形あるものには終わりがやって来るわけで、特にこのことが哀しいという訳ではないが。

切り株は人為的に切られたかも知れないが、その後も自然のままに生きて、そして切り株としては最後の時を迎えた。

それはあくまでも自然の中の営みのひとつだ。

 

ただそれを見る私の心には、ひとつの時代が終わっていく、それを象徴する出来事のように映る。すべてのものに終わりがやって来るのは、人間の世界でもそれは同じだ。社会・経済のシステムにも終わりの時はやって来る。今、この世界、社会の混乱、私たちが経験している混乱は、人為的な意図があるのかないのかは知らないが、崩壊のサインと私は受け止めているし、森の番人、切り株の最後は、私にとっては、この社会がかろうじて保ってきた形態、システムが終わっていくことの先触れだと感じる。(私の中ではシンクロしている) 

根拠は何かと聞かれたら、?分かりません。ただそう感じるだけです、と答えるしかないけれども。

自分は自分の感覚、世界観で生きているので、他の人をそれで説得しようとか、理解してもらおうとは思わない。私はそう感じました、というそんな話だ。

すべてのものは移り変わってゆく。

 

高校の時の古文の教科書に出ていた、方丈記の一節を思い出す。

行く川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず

淀みに浮かぶうたかたは かつ消え かつ結びて 久しくとどまりたるためしなし・・・

まさにその通りだと思う。

方丈記の作者、鴨長明はセンチメンタルに書いた訳ではなく、現代で言えば、ジャーナリストのような気質で、京の都の惨状を記録していたらしい。

(飢饉や疫病が流行って、賀茂川の河原は何万という死体で埋め尽くされていたらしい。京の雅どころか腐臭が充満する世界。それを思うと、今、大騒ぎしているパンデミックなんて、まだ序の口、現代に生きていてまだしもラッキーだったとさえ思う)

また話が大きく逸れてしまったが、そうこの世は諸行無常。移り変わってゆくのがこの世の常。どの時代も、今の時代よりも楽な時代なんてなかったはずだし、今の時代がこれまでの時代よりずっと平和が長続きするという保証も何もない。でも、すべて形あるものには終わりがやって来るということが頭の片隅にでもあったら、少しくらいのことで大騒ぎしないで済むんじゃないかな?

ひとつの時代の終わりは、新たな時代のはじまり。崩れてゆく中に、朽ちてゆく中に、新しい萌芽があるはず。人間界のことなので、そんなにすんなりとはいかないかも知れないが、時をかけて変わってゆくことは必至だ。

 

何も語らず、ただただ静かに朽ちてゆく切り株のようにとは言わないまでも、少しだけ自然界のありのままの姿に想いをはせて(少しは見習って)、自分の中にもほんのひとかけらくらいは、そんな要素があると思ってみるのも悪くないんじゃないかな、と思う。 

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切り株 樹皮

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切り株 藤蔓が命綱