仙人草の咲く庭で

犬と一緒に散策する里山スケッチ。自然界のさまざまな存在や、見えない世界へと誘われる心のスケッチ、モノローグ

明恵上人 2

10代、いわゆる思春期、あるいはティーンエージャーと呼ばれる時期は、身体もそれまでの子供時代とは違って大きく変化していく中で、多分、人生で最も多感で、不安定な時期ではないかと思う。

『我、十三にして老いたり』と呟いた明恵上人は言うまでもなく、映画の『怪物』に登場する少年も小学5年生。10才か11才くらいの設定になっている。そんな多感で動揺しやすい時期に、周囲の人たちと自分が違うことを意識し、意識させられ、それを素直に表現できない、隠さなければいけない状況というのは苦しいことに違いない。

明恵上人は葛藤を抱えながらも、明晰夢の導きや仏陀の教えに帰依することで、個人の領域を超えて、仏教という形で昇華させることができた人だと思う。

『怪物』の中で描かれる、無意識な大人たちの態度や発言が、多感な子供たちにどういう影響を与えているのか?大人たちは気づかないまま、自分達の価値観が正当で、疑う余地のない確固としたものと無邪気に信じている。ある事件が発生するまでは。

形は違うが、私自身もかつて親の期待に添えないことは意識していて、そこに直面するのではなく逃げるという方法をとった。(海外逃亡。強盗や凶悪犯ではありません。念のため💦)

事件や事故というのは、火山の噴火に似ていると思う。すべての事件がそうかどうかは分からないが、ある時期までは何事もないかのように潜伏していて、ある時、突発的に必然性を持って噴出する。無意識だった人たちは、それが突発的に起こったように思って驚くが、自分達がその噴出の一因になっていることに気づかない。。。

思春期に至るまでの繊細で多感な子供たちが、屈折せずに自分らしさを表現して生きていけるようになるためには、まず大人たちが目覚めていて、解放されていることが必須だと思う。

言葉で言うほどそれは簡単ではないかも知れない。政治や経済のシステムが民衆のためのシステムになっていて、大人が生きやすい自由度の高い社会になっていなければ、子供がのびのびと生きることも難しい。自分に誠実に生きようとする人、意識が解放されている人は変わり者あるいは狂人の部類にカテゴライズされるのがオチだ。(レッテルを貼られる)

問題(病気)に意識を向ければ向けるほど(=そこにフォーカスすればするほど)、問題(病気)がクローズアップされて、身動きがとれなくなってしまう。(病気が悪化する)

社会が良くなるのを待っていては、人生が終わってしまう可能性の方が高い。ならば、外側を変えようとするより、自分の内面、心をチューニングすることに意識を向けた方が早いということになる。

周囲に心が解放された既成概念に囚われない大人が増えれば、それに応じて子供も解放されて、幸せな人が増えていくと思う。

そんな大人も子供も解放されている世界を、夢見ている。

あなたが夢見るものがやがて立ち現れ、あなたの世界になっていく。

と、私は単純に思っとります。頭はお花畑。バンザイ(^^)v