仙人草の咲く庭で

犬と一緒に散策する里山スケッチ。自然界のさまざまな存在や、見えない世界へと誘われる心のスケッチ、モノローグ

誕生日についてのアレやコレや・・・

明かりに近づく毛物

闇に浮かぶキャンドル

一昨日は誕生日で、例年なら『射手座の青空』と私が勝手に呼んでいる、

抜けるような青空と暖かさが感じられる日になるのに、今年は違っていた。

なぜか急にを意識させられる曇り空で冷たい風が吹き荒れる日になった。

それも1日だけで昨日、今日は「射手座の青空」が戻って来て、ホッとした。

 

ところで、一般に私たちは、私自身も含めて、誕生日、誕生日と

さも当たり前のように口にしますが、よくよく考えると、いやよく考えなくとも

誕生日というのは、私たちがこの世に生を受けた日、誕生した日のことで、

私たちが赤ちゃんでない限り最近のことではなく、遠い遠い過去、

少なくとも数年前、多くの人はウン10年前にこの世に生を受けたことを

意味します。

つまり、厳密に言うと、私たちの言うそれは誕生日ではなく、遠い過去の

その日に生まれたらしいという記録上の目盛り、記号ということになります。

目盛り=メモリーと韻を踏みたいところですが、99%くらいの人には

自分が生まれた時の記憶はないはずですから、メモリーというのもおかしくて、

やはり記録、あるいは記号、符号というのが正しいように思われます。

 

聞いた話によると、インドでは過去はすべて「昨日」と言うんだそうです。

ヒンドウー語やサンスクリット語などの知識もないし、調べたこともないので、

本当にそれが事実なのかどうかは分かりませんが、仮にそうだとすると、

誕生日は誰にとっても「昨日」ということになります。

これって凄いな!って個人的には思ってしまいます。

誕生日に限らず、過去にまつわる色々な思いもすべて「昨日」という言葉で

括られてしまうなら、錯綜する思い自体も全体像がぼやけてしまって、

ああ昨日のことね、という風に忘却の彼方に追いやることができて、

生きることがより軽くなって、今、この瞬間を生きること、

Be Here Nowという状態に近づけるような気もします。

そういう観点からすると、「誕生日」なんて特別扱いするのも

一種の過去への執着かも知れませんね。

 

そう言えば、昨日(^_^)読んだ「ミュータント・メッセージ」という本の中に

こんな記述がありました。

そのお話の中に登場する「真実の人族」の人たちは、誕生日というのは

かつて生まれた日というだけで格別意味あることでもないから祝ったりしない。

彼らは、自分が何らかの形で成長できたと思った時に、そのことを

部族の人たちに分かち合い、人々はそのことを祝うと。

私はそれは素敵な考え方、やり方だなって感じました。

記号、符号にすぎない何かを、決まりきった形で祝うのではなく、

自分自身が成長できたと確信できた時に、自らそれを周囲の人に告げ、

そして祝福を受ける。

こういうことが私たちのシステムの中に組み込まれていたら、

教育の形も今とは随分変わったものになっていたかも知れないな、

なんて思います。

私自身これまでを振り返ってみて、どれだけ成長できたんだろう?

どこか成長したところがあるんだろうか?

何十年も生きてきたんだから、どこかはあるはずだとは思うけど、

今この瞬間にどこがどのくらいと、明確に言うことができない。

(まさか、全くこの人生で成長してなかったとか???💦)

皆さん、自分の成長を言葉にして表現し、周囲にそれを聞く人がいて

祝福するというそういうシステム、やり方を取り入れましょう。

そうすればきっと、青少年のいじめや犯罪も減るんじゃないでしょうかね?

だって、祝福された人が非行や暴力に走るとか、闇落ちするなんて

考えにくいと思いませんか?

個人的にやるのはもちろん問題なくOK!だし、それをグループあるいは

コミュニティーの中で意識的、積極的に取り入れていったら、

何かが少しは変わっていくんじゃないか、って気もします。

 

またまた話が誕生日から、妄想が拡がってしまいました。

まあ誕生日にまつわるアレやコレやなので、了承して頂ければ幸いです。

 

なあんて言いながら、写真は自分の誕生日のために取り寄せた

ソイ・アロマ・キャンドル。

夜更けに火を灯して、闇の中に浮かぶ灯りを見ていたら、

心が落ち着きました。

(矛盾、矛盾っていう声が聞こえたような。。。気のせいかニャ?😸)

お後がよろしいようで。

何でもない日、バンザ〜イ!!