仙人草の咲く庭で

犬と一緒に散策する里山スケッチ。自然界のさまざまな存在や、見えない世界へと誘われる心のスケッチ、モノローグ

キツネ その2 Honorable Closure

今日は朝からすっきりと晴れて、青空が美しい1日だった。

近所の公園の紅葉も澄んだ青空をバックに、紅や黄色が燃えるようで秋が深まったことを鮮烈に感じた。(ここから一気に冬に向かう気配)

先月、キツネが庭から跳び出したところを見かけたという記事を書いて、そこから1ヶ月半以上経ってしまったが。。。

あれから数日後、いつもの朝の犬の散歩の時に、ジュリコ(我が家の愛犬)が家の裏の道路の溝のところに行って、溝の蓋の奥に鼻を突っ込んで中に入ろうとするので、蓋の下に入らないように引っ張るということが2、3日繰り返された。

雨の降った翌朝のこと、例によってジュリコが溝の蓋のところに行こうとした。今までは蓋の向こう側だったが、今回は手前(右側)の方に行こうとしたので引っ張ろうとした瞬間、溝の中に茶色の何か動物の毛らしきものが目に止まった。一瞬でそれがキツネだと判った。散歩の帰りに、そうっと溝に近づいて確かめたら、思った通りそれはキツネの変わり果てた姿だった。ジュリコが行きたがっていたのは、このキツネのせいだったのだ。たぶん前日の雨で、溝の向こう側からこちら側へと押し流されたのだろう。。。

ついこの間、庭から跳び出してきたのを見かけて、家の裏でもやかましく鳴いていたのに・・・もちろんそれが同じキツネかどうかは確かめようもないが、私は勝手にあのキツネだと思い込んでいた。

折角、友達になりたいなあ・・・なんておとぎ話のような夢を描いていたのに。あまりにも呆気なく、こんな結末を迎えることになるなんて・・・とすっかり気落ちしてしまった。

ともかくキツネの亡骸をそのまま放っておくわけにはいかないと思い、北勢獣医師会というところに、キツネの死体を引き取って死因を調べるとか、そういったことをしてもらえないかどうか問い合わせたところ、キツネは珍しい動物ではないのでそういう対象にはなっていないとの返事。(希少種であれば、研究対象として調べるらしい)確かに希少種ではないかもしれないが、私の個人的な感覚としては、里山に住むキツネもかなり希少なものになっているけどなあと思いながら、愕然としたのは、市役所に連絡したら燃えるゴミとして処分してくれますよという話。それでア、これはダメだと思い電話を切った。

キツネは燃えるゴミなんかじゃない。この里山で生まれ、死ぬまでの(たぶん)わずかの間、この山を住処としてきたかけがえのない命なのだ。それを事もあろうに燃えるゴミだなんて!と憤慨はしなかったが、せめてキツネが暮らしたこの山に還してあげたかった。10月18日、裏山の人がほとんど通らない場所に穴を掘って、そこまで白い布を被せたキツネをとりあえずビニール袋に入れて運んだ。(もちろんビニール袋はゴミとして家に持ち帰った)土を被せて、その上から他の動物が掘り返したりしないように、木切れを重ねて載せてこんもりと盛った。セイジを焚いて、キツネの霊が無事光のもとへと還れるように祈った。出会いから別れまで、呆気ない幕切れとなってしまったが、最後を見届けて埋葬できたことは、ある意味得難い経験でもあり、見送ることができて良かった。

 

ここで私が学んだHonorable Closureについて触れようと思う。

Honorable Closure(オノラブル・クロージャー)

私たちが愛した存在がこの世を離れるのを経験することは、心が痛む悲しい出来事ではあるが、セレモニーを行うことで、あちらの世界に旅立つ自然界の存在と人間の両方に癒しをもたらすことができる。

その対象が動物であれ、植物であれ、縁のあった存在に対してその生命(いのち)が終わった時に、その生命がこの世に在った時に、いかにこの世界を美しく彩り豊かで楽しいものにしてくれたかということを、愛と感謝とともに讃えてもとなるspiritの光りのもとにスムーズに移行できるように送り出すという儀式。(相手に対する敬意や愛情があれば十分で、決まった形式があるわけではない)

その出来事が今でなくても、Shamanic Journeyは非日常の世界なので、時間の枠に縛られる事もなく、たとえ10年前でも20年前のことであってもhonorable closureを行うことができる。それによってセレモニーを行う人間の側にも癒しがもたらされる。この世にある生命にとって、死は避けがたいものである以上、私たちが経験するのは死や別れの悲しさだけではないはずで、その存在と触れ合ったことが人生を豊かで美しいものにしてくれたことも思いだす必要がある。

この家に住み始めてから23年間、ずっと犬・猫と共に暮らしてきた。今も我が家には犬と猫が2匹ずついる。

私にとって動物に死なれるのは、極端な話かも知れないが人間に死なれるより悲しくて辛いことで、それは動物が人間のように話をする生き物ではないことと関係があるかも知れない。彼らが何も言わず(とは言っても主張はしているが、それはともかくとして・・・)気がつけばそばにいて見守ってくれている存在だからかも知れないと思う。

そんな私にとってHonorable Closureという儀式は、過去の悲しみを癒してくれる大きな助けにもなったし、同じように動物に対して愛情深い友達の助けにもなった。

過去を辿れば、これまでの人生で遭遇した動物(おもに犬・猫)にまつわる悲しみや後悔、何もしてあげられなかったという苦い思いなど、完全に消え去ってはいない思いが点々と残っている。彼らに対して改めて愛と感謝を送ることで、私自身のスピリットが清められることのメリットは大きいものだった。

*Honorable Closureに適当な訳語を見つけるのが難しい。日本語にしてしまうと、例えば名誉を讃え(輪を)閉じる儀式としてもピンとこないし、別れの儀式、葬別の儀式としても何か違うような気がするので、そのままHonorable Closure(オノラブル・クロージャー)と呼ぼうと思う。

*Honorable Closureは例えば、切り開かれて大量に伐採された木々や、森の中でただ徒に切られて放置されたままになっている木のような植物に対しても行うことができる。それによって自然界の存在に多少なりともリスペクトの気持ちを送り、それを見たことによって傷ついている自分自身の気持ちを癒し、自然界との相互の関係を修復していく働きがある。