仙人草の咲く庭で

犬と一緒に散策する里山スケッチ。自然界のさまざまな存在や、見えない世界へと誘われる心のスケッチ、モノローグ

木・祈り 〜その4〜

鎮守の森が駐車場やマンションに変わったり、ショッピングモールに変わろうとする現状は、生命の危機の前に、私たちの精神性、魂が危機に瀕しているということの現れなのだと思う。豊かな精神性の基盤があれば、こんなに荒廃した状況に陥るはずがない。

直接的には企業やその計画を支援する政治体制があって成立していることだとは思うが、それは私たち自身と無関係なことではない。私が住む里山でも、何年か前に休耕田を田んぼにするといくらか助成金だったか補助金が入るとかで、近隣の農家の人たちが俄に活気づいて、突然今まで休耕田だったところはもとより、立派な琵琶の木が育っていた空き地や広々と開けていた草地も田んぼにするべく、そこら中の木を切り倒して、農道沿いのドングリの木も道路に張り出して通行の妨げになる訳でもないのに、近所の人の言葉で曰く「ウザコイ」とかで、リスペクトのリの字もないひどい切り方で、なぎ倒されていった。耕作地を広げるために川沿いの木も軒並み切って、川に押し倒したような状態で放置されたままだった。それらの木の無残な切り口には心が傷んだ。あまりにもひど過ぎると思った。これが米という日本人にとって重要な命を繋ぐ大切な植物(作物)を作る人たちのすることなのだろうか?と我が目を疑った。おそらく農家の人にとっては、もはや米=金なのだろう。命に敬意を払うとか、精霊たちに祈りを捧げて許しを乞うなどということは思いもよらないことなのかも知れない。

ただ私がここで思うのは、私たちは皆繋がっていて、それはどこかよその思慮分別のない他人がしたことと片付けるわけにはいかない、自分自身の心の中にその悪しき種が潜んでいるというところだ。それが自分の中にあるからこそ、その心の反映を外の世界に見るのだと思う。一体、私の生きている世界、心の在り方のどこをどうすればよいのか?

ここで答えを提示することができればいいのだが、今のところハッキリとした答えはない。どんな解決法もどこかで矛盾を生んで「頭かくして尻かくさず」になることが見え透いている。今の私にできることは、そのことに気づいていること。意識していること。心をできるだけ穏やかに保つこと。自分の心の宇宙に深く入っていくこと。抽象的過ぎるかも知れないし、自分がどこまでできているのか心もとないところもある。

あとはこうして自分の見聞きしたことを言葉にして伝えていくこと。言葉は不便な物で、なかなか思うようにできなくて焦ったい気がするが、今のところ、私には他に方法が思いつかないので、今の自分で在ること。見つめることをしている。