仙人草の咲く庭で

犬と一緒に散策する里山スケッチ。自然界のさまざまな存在や、見えない世界へと誘われる心のスケッチ、モノローグ

Kieri 〜風の木〜 追記

風の木へと苦しい巡礼の旅をして、目的地に辿り着いた巡礼が行う儀式や風の木から巡礼者へ注がれる祝福。。。巡礼をしたことのない人間にとっては不思議に思えることばかりです。

またメキシコや中南米・南米の先住民に特有の生贄のことや生贄にした動物の血を注ぐことなども、現代日本を生きる私にとっては恐ろしくも謎めいています。

血というものがスピリットと特別な関係を結ぶことに関わっているのだろうということは想像がつきます。メキシコの巡礼でなくても、日本やヨーロッパでも血判書のように特別に重要な契約を交わす時に、自らの身を切って血を流し、その血で判を押す。あるいはお互いの血を交わらせることで、固い契りを結ぶなどということがあります。(よく分からない世界ですが・・・^^;)

余談ですが。そういえば、何かで読んだのですが(記憶が曖昧なので間違っている箇所もあるかと思いますが、その辺は情状酌量していただくことにして・・・)、南米のペルーやメキシコで行われていた人身御供。太陽神への供物として幼い子供や女性、男性を生贄として祭壇に捧げて、生きたまま首から切断したそうです。文字通り、生きた人間の血や、頭、特に脳みそは神への捧げ物として欠かせないものだったようです。おぞましいとしか言いようのない慣習だったと思うのですが、アズテックやアズテック以前の人々は、生に対する執着よりも、太陽神に自分の身を捧げることで、自分があちらの世界でより大きな報酬を得られる、霊格が上がる(だったかな?)、、、(この辺の記憶があやふやで怪しいです^^;)兎に角、私たちには理解しがたいことですが、彼らは嬉々として身を捧げたという話でした。

風の木のスピリットという目に見えないものに対して、動物の生贄の血を注ぐ。そこに至るまでの過程においても、血を流すところまではいかないにしても、巡礼をする者は死ぬほど苦しい思いをして汗や涙を流して歩く。

スピリットからの恩寵を受け取るためには、自分の身を捧げ尽くす覚悟が必須で、多大な自己犠牲を強いられる(もちろん自分自身の決断の下に)、それ程大きな犠牲を払うことができた暁には、死ぬ程手に入れたいと願ったスピリットから知恵や魔法の力という贈り物を受け取ることができる。。。

何となくその世界を想像はできても、知的な理解の範疇を越えることはできず、経験がないので腑に落ちたというところまではいきません。目に見えないものに対して、あまりにも生々しい生き血を注ぐという対比に圧倒されるばかりです。もっとライトな感覚でいけないものかな?なんていうのは、甘すぎる現代人特有の考えなんでしょうね?

風の木のスピリットという言葉に触発されて訳し始めたと言っても過言ではないのに、リアルなその世界にはほど遠いと感じる日常です。とは言っても、決してそれを卑下しているのでもネガティブになっているのでもなく、私にとってはこういうとても当たり前で平凡に思える日常に身を置くことに、目に見えないスピリットの計らい、働きがあるのだろうと思って、のんびり、のほほんと過ごしています。(少し、いやかなりだらけ気味の手前味噌だったかな?^^;)

何だか支離滅裂、何が言いたいのか訳がわからなくなってきました。巡礼の厳しさや血を注ぐという生々しさに引っかかって、ただ解説を訳して伝えるだけでは足りない気がしたので、今日改めて、自分の感想を付け加えてみました。(結局、大した内容じゃなかったですね😅・・・)

まだまだ暑い夏が続きます。できるだけゆったりと快適にお過ごし下さいね。