3.あなたがどこにいようとも私はあなたと共に在ります
マスターはどのような修行もするようにと勧めたことはなかった。私が彼と共にあった時、マスターは一切何もしなかった。常にただ静かに座っていて、ゆったりと過ごしているだけだった。寝るのでもなく、瞑想をするのでもなかった。その後、私は働くためにマドラスに戻ったが、土曜日の半日と日曜日、休日はすべてマスターのもとで過ごした。以来、マスターが他界するまでの日々、可能な限りマスターと共に過ごした。インドとパキスタンが分割されるまでは。
デイビッドという人が私の家はどこにあるのかと尋ね、国がインドとパキスタンに分割されることになったと教えてくれた。私は政治については全くの無知だったので、それについては何も知らなかった。私の故郷のパンジャブはパキスタン領になり、アシュラムのあるこの場所はインド側になるので、あなたは故郷に戻って、家族の面倒を見た方がいいだろうと彼は言った。
しかし私はこう答えた。「いいえ。私は家族をはじめすべての関係について、そういう関係性があるという夢を見ていたに過ぎません。今、私にとってはマスターとのつながりしかありません。だから、この場所を離れるつもりはありません。彼なしに生きていくことはできません」と。
マハリシはリウマチを患っていたので、それほど歩くわけではなかったが、朝あるいは晩に散歩をする時にはいつでも、何人かの人がマハリシについて歩いた。その散歩の時に、このデイビッドという人物がマハリシに私の話を伝えた。
マハリシは私に「何故あなたは行かないのですか?」と尋ねた。「あれは夢で、夢は終わりました。あなた以外他に誰もいません」と私は答えた。
マハリシはこう言った。「もしそれが夢だと言うのなら、何故夢を恐れる必要があるのですか。夢は夢に過ぎません。家族の元へ行きなさい。夢の中でたとえ旅をしたとしても、あなたは旅などしていないし、人を見たとしても、見てはいないのですから」と。
私はこう答えた。「今や私はあなたに執着しています。あなたから離れることはできません。物理的に執着しているのです。あなたのそばにいることを諦めることはできません」と。
するとマハリシはこう言った。「あなたがどこにいようとも私はあなたと共に在ります」と。何故かこの言葉が私の心に入ってきた。(直感的に理解した)
この言葉について間違った理解をする人もいると思うが、これは万人に通じる教えなのだ。「あなたがどこにいようとも私はあなたと共に在ります」この私は在る(I am)というのは、神のことであり、セルフ(真の自己)のことであり、意識と同じものだ。私はそれ以上議論することはできなくなってしまった。それでマスターの足元の土をすくってポケットに入れ、祝福をいただいて、彼の元を離れた。それが私とマスターの話だ。
*以前に紹介したもうひとつのパパジの神様噺もよかったらどうぞ
https://www.mirikomurakami.com/entry/2019/12/25/110813