仙人草の咲く庭で

犬と一緒に散策する里山スケッチ。自然界のさまざまな存在や、見えない世界へと誘われる心のスケッチ、モノローグ

オランダ正月 暦その1

2020年 元旦

全般に漂う和やかなお正月モードにのせられて、旧暦派の私もお雑煮を作ったり頂き物のおせちを頂いたり、のんびりまったりモードのお正月気分を味わっている。

私たちは西暦(グレゴリオ暦)の「正月」1月1日を元旦と呼んでいるが、子供の頃に読んだ歴史の読み物によると、江戸時代、オランダと交易のあった長崎の商人たちが、オランダ人が祝っていたお正月を物珍しい新奇な風習として真似て、オランダ正月と呼んで祝うようになったのが、そもそもの西暦でのお正月を祝う始まりだったようだ。

旧暦では昨年の12月26日(新月)が師走の朔日(1日)に当たり、その日はそれまで暖かった天気が急変して寒風が吹きすさぶ1日で、冷たい強風に煽られ師走という感が強まり、まさにここからが冬本番と感じられた。毎年、暖冬と言われていても年末になると、急に寒さが厳しくなり、風も冷たさを増すのはやはり、日本の風土の季節の巡りと一致しているからなのだと思う。(今年はそれ程でもなかったが。。。)

 

今年の旧暦の元旦は1月25日で例年より少し早いが、その時期になると寒さは厳しいものの、光りの中に春が感じられるようになる。光りの中に春を感じるなんて、日本人らしい感性ではないだろうか?

西暦のように3ヶ月の区割りで四季を分けるのとはだいぶ趣が違うし、この国の季節、陽気の移り変わりにピッタリしている。

西暦のカレンダーはビジネス中心の世界を動かしている。年末には御用納め、そして12月31日が大晦日で除夜の鐘。役所も会社もその時期に合わせて正月休みに入り、故郷に帰る人で交通機関は大混雑。元旦の朝は大半の人がゆっくり休んでいるお陰で、世間にも穏やかなバイブレーションが漂っている。1週間前後で休みの期間が過ぎると、世間にはまた騒々しさが戻ってくる。

暦は生活のあらゆる側面と密に関わっている。

好むと好まざるに拘わらず、私も人々が生み出す大きなバイブレーションの影響を受けるが、旧正月を正月ー1年の始まりとしている。特に何をするという訳ではないが、ここからが春の始まりという気持ちになる。梅の蕾が膨らみ始めるのもほぼその時期と重なるから、透明感のある光りと梅の花の香りに春を感じる。

西暦が悪いという訳ではないが、完全にその運行に慣らされてそれを当たり前とせずに、旧暦での季節の巡りを肌に感じて暮らしてみるといいかも知れないくらいには、少し幅を広げてみるのは悪くないんじゃないだろうか?

グレゴリオ歴がビジネス中心の暦として作られた訳ではないかも知れないが、実質的には暦を制する者=政治・経済・宗教の支配者という構図になっているのではないだろうか?

日本人が先祖代々感じてきた季節の移ろい、感性を、ビジネス中心に動いている西暦によって失ってしまう(=西洋的思考・価値観に乗っ取られてしまう)のは、あまりにも惜しい気がする。(と言ったからと言って、特に国粋主義者という訳ではありません。念のため)

私たちのDNAの中に組み込まれた感性を、明治に入ってたかだか150年余りの西暦による支配で、ないもの同然にしてしまうのはどうだろう?(DNAに組み込まれているかどうか知らないが、何かしらそういったことがあるのではないかと想像する。。。)

あるとしたらそんなことで簡単に失ってしまうはずはないかも知れないが、それでも世間に支配的な風潮はかつてあったものをないものとし、自分たちの手に何があるのかを見ようともせずに、自分たちがどこに向かっているのかも知らずに、盲滅法に突き進んでいっているような気がしてならない。

漠然とした言い方ではあるが、そんな風に感じているのはきっと私だけではないはず、と思う。