仙人草の咲く庭で

犬と一緒に散策する里山スケッチ。自然界のさまざまな存在や、見えない世界へと誘われる心のスケッチ、モノローグ

キリのない話 4

話は飛んでしまうかも知れないが、カルロス・カスタネダが描いた呪術師ドンファンの世界。その中でドンファンは弟子のカスタネダに、「その道に心はあるか?」と問いかけている。私はドンファンのこの言葉が、すべての人の生きる上での指針になったらいいのではないかと思う。何をしてもいい。ただその道に心があるのだろうかと、自らに問いかけること。

それは自分自身に何をすれば、あるいは、どうあれば自分(の心)が幸福と感じられるのか、本当の幸福のありかを問うことでもあると思う。

単純に言って、人が幸福と感じるために必要なことなんて、そんなにないような気がする。(幸福であるために、やる必要のあることなんてないんじゃないかな?)ただ心の傷があると、その傷を癒すため、あるいは傷があることを感じないで済むように、それを補うような行為の上塗りをしてしまって、本質から、自分の本来の在りようからどんどん離れていってしまうのかも知れない。

幸せになるためや癒されるために、たとえば宗教とか何らかのメソッドに囚われてしまうと、それが唯一の道だというふうに心が頑なになってしまって、周囲の人とギャップができてしまう、なんていうことはありがちなことだ。必要なのは、ありのままの飾らない自分、歪な自分を受け入れて、認めてあげる、ただそれだけなのに、宗教的ドグマ(教祖さまの教えとか、ナントカカントカ)にはまってしまい、不幸な事件に発展してしまうというケースを嫌というほど見てきたような気がする。事件になるほどではないにしても、よく見るとそんなケースがゴロゴロところがっている。

今こそ、自分自身の幸福がどこにあるのかを見つめ直し、問いかけ直す時が来ているのではないかという気がする。沢山のまやかしや幻想を払い除けて、心の声を聞く。なんでもないことで笑っている自分を思いだす。懐かしい風景の中にあるもの。色々な形で見つかるものがあるかも知れない。それは名前やラベルを貼ることができない、ささやかなことの可能性もあるような気がする。(名前をつけることができたり、大義名分があるとしたら、それはフェイクだと思っていいんじゃないかな?)

私は黒子さんたちに、緑あふれる美しい地球で、何の憂いもなく暮らしている。少なくとも衣食住に心を煩わせる必要がなく、自分の心が求めるままに自由に生きられる世界があって、そうなっている歓びあふれて生きている私がいるように、そういう結果を受け取りましたよと伝えておこう。

(結局、引き寄せ?)

今まで熱く、堅苦しく語っていたことは何なんだ?って結果になりました。済みません。妄想なので^^; ここまで付き合ってくださった皆様、有難うございます。貴方と私が歓び溢れて生きている世界が、もうそこまで手の届くところまで来ていますよ。(違ってたら、あい済みません。m(_ _)m)