仙人草の咲く庭で

犬と一緒に散策する里山スケッチ。自然界のさまざまな存在や、見えない世界へと誘われる心のスケッチ、モノローグ

黄糸蜻蛉(キイトトンボ)

6月1日

昨日、小さな生き物に遭遇した。

黄色いクリスタルな輝きを放ち、

細ーい細ーい糸のような身体。

初めて見るその方のお名前は黄糸蜻蛉(キイトトンボ

まるで宝石のような黄色いキラメキと

そのスレンダーなボディーは圧倒的!

 

今まで20年余り見かけたことがなかったのは何故だろう?

考えられるのは個体数が少なくて稀有な種類であること(?)

また私が散歩で歩くのが、春から夏にかけては日陰の涼しい方の道で、

今まで日のよく当たる側の道を歩いてこなかったからかも知れない。

 

いずれにしても毎日同じ場所を歩いていても、

何かしら発見や驚きがあるのが嬉しい。

やはり歩いていないと気付かずに過ぎていってしまうことの方が

多いだろうから、歩くことには価値があると思う。

 

ちなみにアメリカ・インディアンは生きるという意味で

Walkという言葉を使う。

人生という意味でWalks of lifeと言ったりもする。

歩くこと=生きること。

とても分かりやすいなと思う。

 

屁理屈になるかも知れないが、

歩かずにいつも車に乗っている人はどうだろう?

仕事のために車ばかり乗っている人、何をするにも

どこへ行くにも車を使ってしまう人。

(車に乗りだすとそうなりがちなのは、私自身もよく分かる)

歩くことが生きることなら、そういう人は仕事はしていても

生きていないことになる。

車なら自分の家から直接、雨が降っていてもほとんど濡れることなく

どこへでも行ける。早くて便利だ。

それに比べると、歩くという行為はまさに自分の足で

一歩ずつ歩を進めるしかない。

傘をさしたにしろレインコートを着たにしろ

濡れることは避けられないし、

一瞬にして何キロも進むことも無理だ。

車を持たない人間はカタツムリのようなものだ。

でも、一歩一歩に刻まれる経験は忘れ難いものに

なるかも知れないし、

思いがけないギフトを運んでくれる可能性もある。

私が昨日キイトトンボに出会ったように。

私たちは便利さの陰で色々なものを見過ごして

しまっているのかも知れない。

里山の小さな生き物たちや、植物たちの静かな気配は

時として生きるということの素朴な意味に気づかせてくれる。

それって案外大事なことなんじゃない?